ふにゃふにゃと営業中(立ち位置などの話)

シェアアトリエ&ギャラリー「キノコファクトリーのねじろ」、なんとなく営業中でございます。
営業中というか、営業しながら準備中というか。

やっぱり、こういうことをやっておりますと、自分の役割というか、立ち位置みたいなものを意識する事が多くなりました。

私などは、発達障害の当事者であり発達障害者の配偶者でもあるという立場ではありますが、誰かのために動くこととなってくると、保健・医療・福祉系の資格を何も持っていない、ただのお絵かき好きな一般市民です。
障害もおそらく比較的軽度だと思われ、必死こけば半年間ぐらいはフルタイムの一般就労ができます。

その程度だから、「自分くらいの者が支援や福祉制度を利用するのは、怠け・甘えなのではないか」という考えが常につきまとっていました。
「本来はみんなみたいに自力で頑張らないといけないはずなのに、私のはサボりだ」という感覚がありました。

自立支援医療制度、また障害年金、そういったものの恩恵を受けながらにして同時に自分の人生をめいっぱい楽しく謳歌することに対して、わりと強めの罪悪感があり「目立たず、楽しまず、ひかえめに粛々と生きなければなるまい」という意識があったと思います。
私よりつらい中で自力でがんばっている人もいるのに私は、と。

「自分もその感覚に心当たりがある」と感じられた方も、けっこうな数いらっしゃるのではないかと想像いたします。

わたしが今の自分の立場から伝えねばならないのは、「そういった制度を利用していても、全力で人生を楽しんで良い、遠慮はいらない」ということと、「それを見て疎ましく感じる人は頑張り過ぎであって、その方もまた支援を受けるべき状態ではないか」という提案と、またそういった事柄を気兼ねなく・重たくなく相談し合える環境づくりかなあって思っています。

だからこそ、叩かれるの覚悟で障害年金受給もがんがん全面に押し出しているし、障害も隠してない。

福祉制度って、「助けて〜!」って言える状況にある人にしか、使えないんですよね。
かつての私がそれで困っていました。「助けて」って発するのを、自分に対して許すことができなかった。
当時ネット上で、暗いことを言う人に対して「なんちゃって鬱」「構ってちゃん」「ボダ」みたいな叩き方が流行っていて、そう認定されることを恐れたんですね。
「自分もそうに違いない」と自分で決め込んで、必要以上に自分に厳しくあたっていましたし、すべてを隠し通していました。

助けを求めるにも強さが要るという状況がありました。
弱い者は外から見えないままで壊れながら耐えるしかないという実態があったんですよね。
「誰も助けてくれるわけがない」と諦めていたし、いじけてしまって自ら孤独に突き進んでいたと思います。

そこまで行ってしまうともう心をほぐすのがかなり難儀になってくるし、専門知識がなくては手に負えない状態にもなっていると思います。
そうなる前の段階で、もっと人と人が相互に助け合っていく必要があるって思っています。

おせっかいになるのは、勇気がいります。
でも、「こっちがちょっと片思い気味」っていうスタンス、すごく大事なんじゃないかなって最近思うんです。
返事がなくても、懲りずにいつも声掛けするっていう、「もしかしてこれ迷惑なのかな」って思って避けてしまわないで、響かなくてもひたすら片思いを続けるっていうスタンス。

「誰かが自分を気にかけている」って感覚は、いろんな意味で、ストッパーになると思うので。
ときにうざかったり、ときにそれが逆に申し訳なくて仕方なくなるかもしれないけれども、でもここぞっていうときに、一瞬自決をためらうきっかけぐらいにはなると思うから。

だからやっぱり、「福祉ではない、支援ではない」っていうところはこだわっていきたい。
「ただの隣人です」という立場からしかできないことが絶対ある。

そこを突き詰めていけたらいいな〜と、ゆるゆる思っております。

意外と真面目な話に着地したぞ。

飲んでる。

うまい。ウメサワー。

また。